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農園概要(場所・人・心)

場所

観音山さん

この山は地元では「観音山」と呼ばれておる。

「父母の恵も深き・・」で有名な粉河寺の裏手に広がる山で、昔からおいしい柑橘類ができると言われているんじゃぁ。ここで観音山フルーツガーデンも栽培をしておる。

みんな観音様のおかげじゃと、感謝しておるんじゃ。

西国三十三番札所のお寺は、すべて観音さまをお祭りしておって、観音様も多くのお名前があるんじゃが、粉河寺には「千手観音」様が鎮座されているんじゃ。

第2次大戦後、昭和47年頃をピークに全国のみかんの園地は急増したんじゃが、明治時代から栽培されているみかん園は非常に珍しく、それだけを見ても観音山はみかん栽培の最適地と言えるじゃろうのぉ。

〒649-6531和歌山県紀の川市粉河3186-126

紀ノ川東インターチェンジから約5分。紀ノ川東インターチェンジを降りられてから、最初の信号を含め「左、左、左」と信号を3個左に曲がって頂き、500mほど直進して頂きましたら看板が出てきます。
昔のナビでしたら旧の場所に誘導される可能性がございますので、グーグルマップなどのアプリで検索してお越し下さいませ。
果樹園に囲まれた「観音山」の中腹にございます。

ポンカンさん

簡単な履歴をご紹介しますので、垣間見て下さい~。

ヤマチョー農園(愛称:観音山フルーツガーデン)の履歴(※観音山関係だけを記入しております)

創始者 児玉吉兵衛・オヨシ(大正15年他界)
  • 開墾明治四十四年。観音山で開墾を始めみかんを植える。
二代目 児玉長次郎・コマ(昭和37年他界)
  • 観音山でみかんを増植。
三代目 児玉正男・フサエ(昭和20年他界)
  • 昭和元年から個人出荷を始める。
  • 昭和2年からは付近のみかんを購入し、内地販売と併行して、北米輸出、続いて朝鮮・旧満州などの外地販売を続け、商標も「ヤマチョー」を取得。
みかんを積んだトラックと、稲葉で編んだみかんの網力ゴ(担いでいるもの)と、貯蔵用の木箱(写真右側に積まれているもの)
木箱に「ヤマチョー」のロゴと、「特選」の文字が見える。
  • 昭和10年頃からは商取引も活発で、昭和19年頃までは、販売も生産も軌道に乗り、一応は蜜柑経営も成功したかの様に見えた。

    しかし、正男がその時の流行病であった、腸チフスにかかり他界。

フサエ
3代目の「フサエ」と観音山。
四代目 政藤・照子(政藤 平成3年他界)
  • その後太平洋戦争終結。
  • 政藤も出征先の旧満州より帰国。正男の他界により、23歳でヤマチョー農園の園主となる。
写真の右は政藤の兄弟である。前垂れに見慣れた文字が!
前垂れのアップ。ヤマチョーのロゴと「紀州粉河町」「株式会社柑香園」とある。
  • 次のような幾多の難問題が立ちはだかる。
    1. 農地解放(昭和22年、第90議会自作農創設特別措置法)
      所有農地の8分の5を手放すことになる。
    2. 蜜柑園の復興と、見返り肥料(北米輸出の再開)
      戦中戦後の蜜柑園の荒廃は甚だしく、肥料不足によって、その復興はおぼつかなかったのが、幸い昭和23年より始められたカナダ向輸出蜜柑に参加して、その見返り肥料(硫安硝安過燐酸その他)を樹勢回復に当てた
    3. 税金攻勢と農業法人の設立(レヤウプ税制勧告)
      他より早く樹勢の回復を図り、これによる収量増加と北米輸出などで収入は増加したものの、次に襲われたのが所得税の重圧であった。
      戦後経済界の一大恐慌は税金攻勢で、蜜柑作農家のヤマチョー農園もその嵐の中に巻きこまれていたのだが、昭和24年4月から再度来日して日本経済再建を図った米国コロンビア大学のカールレヤウプ博士の税制改革による有名な「レヤウプ勧告」で、これによって種々研究の結果、農業も法人化することによって、経営や税制に合理化の道が拓けてくることを知り、全国の果樹生産農家にさきがけて昭和27年2月株式会社柑香園を設立して営業を開始し、その右、十年余りを経過したが、昭和37年改正農地法によって、農業の株式会社化が認められず、同年11月解散、翌日有限会社柑香園に組織替えをした。
    4. 果樹専業農家
      昭和37年、水田及び用水池の転作を計画して開園し早生温州と一部はっさくを定植して、蜜柑作の専業農家になった。
      昭和35年頃より、個人出荷に戻り、個人出荷兼商人売(土地の商人や和歌山市などの小売店)などを行い、農協や任意出荷団体には加入せず、あくまでも、生産と直売による経営内容で、省力良品生産優品販売を目標とした堅実経営に努める。
一番左が政藤で、一番右が照子。周りの方々はいまで言うパートさんです。
五代目 典男・美恵子
児玉典男(ふみお) 昭和47年就農
履歴: 三重大学農学部農芸化学科(現:生物資源学科)(S47年卒)
子供の頃から、父親の果樹栽培にかける情熱を見て育ち、大学も農学部を選びました。卒業後、即就農。以来34年間、ひたすら柑橘栽培没頭して参りました。今、「安全・安心」の栽培に関しては農芸化学を専攻してあったこと幸運だったと思います。まさに今話題の団塊の世代真っ只中です。
経歴: 和歌山通訳ボランティアクラブ発起人初代副会長
和歌山有機認証協会発起人初代理事
第10回農業情報ネットワーク全国大会事務局長
趣味: 読書(司馬遼太郎先生が大好きです)
ピアノ演奏(譜面が読めず自己流です)

…さくら(森山直太郎)・ダニーボーイ・昔の童謡は何でも。還暦には、ミニ演奏会を開く予定です。

児玉美恵子(みえこ) 事務発送も担当
履歴: 帝塚山短期大学家政科食物栄養(現:帝塚山大学現代生活学部)(S46年卒)
車で10分の場所に実家があり、小学校も中学校も高校も夫と同じ学校でした。昭和48年、縁あって児玉家へ。後から振り返ればこれも縁、なぜか食物栄養を専攻していました。2女1男の母親です(典男の子供だそうです)
趣味: 読書(テレビで話題になればすぐに読み始めます)
特技: 知り合いの車のナンバーはすべて分かります。数字に強い?
児玉典男・美恵子
十年前の典男と観音山。写真中央の制帽をかぶったやんちゃ坊主。
六代目 芳典
児玉芳典(よしのり) 平成18年就農
履歴: 神戸大学農学部植物資源学科(平成11年卒)
大学卒業後、7年間公務員として働かせていただく。
農学部の教授の「お前たちが日本の農業の事を考えなくて、誰が考えるんじゃ!」の言葉を胸に、観音山に日々感謝である。
私自身の頑張りが日本農業のカンフル剤となりえるよう頑張りたい!
好きな言葉は「勇気を出せ!」「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問おう(ByJohnFitzgeraldKennedy)
ただマムシとの遭遇はもうコリゴリ。

きよみんさん

心を込めて育てています

観音山フルーツガーデンでは、カンキツ類の収穫は最終の農薬散布から2か月以上間を空けて行ったり、防腐剤やワックス処理は一切行っていないんですよ。大まかに取り組みを述べていきますとですね

収穫そのままを手選別で、お届けしています。だから新鮮!だから長持ち!

農薬は必要最小限に抑え、防腐剤やワックス処理は一切行っておりません。

肥料は自家製堆肥のほか、有機肥料に重きをおきます。

カンキツ類は、一本一本すべて試食した後に収穫します。

「安全でおいしくなければフルーツはない!」をキャッチフレーズに、我が孫にも丸かじりさせられるものを生産します。

児玉典男・美恵子と孫
観音山の奥へと続く林道

〜ここからは結構固い話になりますので、ご興味ある方はどうぞ。〜

  1. 肥料に関して
    有機物を中心に、オリジナルの配合肥料を施肥しています。
  2. 農薬、除草剤に関して
    日本で許可されている農薬の安全性は世界でも最も厳しい基準にあるそうですが、それでもできるだけ使用しない方が消費者の方々にも、我々自身にも良いことです。
    当園では、カンキツ類について農薬の最終散布から収穫までの間隔を長くするため、収穫2ヶ月前以降の散布は行なっておりません。
    特に、収穫前の防腐剤、防カビ剤の散布は絶対に行いません。
    よい肥料と熟度の高い堆肥、潅水にはきれいな水を使用し気象に影響されにくい緩衝力ができ収穫するフルーツは活力を持ちます。
    健全なフルーツは、防腐剤散布やワックスを使用をしなくても簡単には腐りません。
    また、選別は選果機を使わず手選別で行っておりますので、保存も長く可能です。
    さらに、インターネットからのきめ細かい気象条件を得て、使用回数、使用濃度を極力押さえています。
    除草剤については、その使用と国産自給率向上のバランスが大事だと考えています。
    除草剤をまったく使用せずに5haの面積を栽培するか、必要に応じて使用しながら10haの面積を栽培するか、どちらが良いかを考えながらの使用です。
    確かに今の日本では海外からたくさんの食料を輸入することが出来食品が溢れていますが、国産自給率を高めることは大事だと考えています。
    除草剤を使うことで労力が軽減され、高齢化により耕作放棄地になりそうな園地を新たに引き受ける事が出来るならば、国産自給率の維持にも繋がります。
    自然環境を考えれば農薬も除草剤もまったく使用せずに栽培出来れば理想的なのですが、高齢化が続くこの地域で、除草剤を必要に応じて使用することで、少しでも耕作放棄地を減少させることが出来ればと考えております。
  3. 潅水に関して
    きれいで豊富な水源と完璧な潅水設備
    我が家の自慢は大台ケ原の猿谷ダムから直接流れてくる「紀ノ川用水」や江戸時代に作られた「小田井用水」などきれいで豊富な水源を全園地に持っています。
    またコック一つの操作で潅水ブロックの切り替えができる設備を有しています。
    デコポンやレモンポンカン等は乾燥に弱く、真夏だけでなく一年を通じて潅水が必要な時期があります。
    水源から一番遠い園地は50ミリのパイプの総延長3kmにもなります。
    3箇所の園地に10馬力~15馬力のモーターとセットしたポンプが計5つあります。
    ひどい干ばつ時でも全園地を守ることができ、安定した品質の果実を生産できます。
  4. 果実の採取
    信じるのは人の舌のみ
    我が家では収穫期には「糖度計」は使用しません。
    品質の基準として唯一、信じるのは家族や知り合いの消費者の皆様の舌です。
    同じ園地の隣合った樹でも、そこから収穫できる果実は品質的に大きな差があります。
    収穫の直前には、一本一本、その木で一番まずそうな果実を試食して合格すれば、その木からの収穫のゴーサインを出します。
    着色だけを基準にして一旦収穫してしまえば、その後、光センサーなどを使用しても、人間の感じる食味を測ることはできません。「糖度や酸度」はデジタルの世界で、人間の感じる「食味」はアナログの世界だと考えます。糖度や酸度の数字だけでは食味は表現できません。
    糖度10度でも、とろけるように美味しいみかんもあれば、糖度13度でも水っぽいみかんがあります。昨年、東京・京都大阪のスーパーを食べ歩いての実感です。
    糖度は主たる甘み成分、果糖、蔗糖、ぶどう糖の総量で、それぞれの成分の甘みの強さが違います。糖度は同じでも成分の構成比率が違えば人の感じる甘みは違います。 農家や出荷団体の「糖度」へのこだわりが消費者の方の"みかん離れ”を助長しているのだと確信します。
  5. 選果パッキング
    卵を扱うように優しく丁寧に!
    果実の味の劣化の一番の原因は収穫・搬送・選果、箱詰め・配送時の衝撃です。
    当園の果実のサイズ分けは一個一個手で計量秤を使用します。
    (どんな秤?)サイズの小さなみかんやレモンもすべてです。
    収穫時丁寧にコンテナに入れ、その後は一個、一個人の手で箱詰めされます。
    基本的に7月中で農薬散布を終え、その後、平成17年度は350ミリ程度(潅水を含め)の雨にさらされていますので、ブラシ処理の必要もなくほとんど衝撃らしきものはありません。
    ブラシ処理は果皮の呼吸を活発にして、果実の内容成分の消耗が激しくなります。
    そのすべての工程で、クッションを敷き、小さな衝撃も許しません。”お宅のはっさくはなぜ苦くないのですか?”とか”いつも食べるみかんと違いエグミがまったくありませんね”とお客様から驚きのご報告が多いのはそれが原因だと思います。
    我が家から発送して東京の紀ノ国屋さまのお店で見た鮮度の高さも驚きでしたし、青果担当者の方から"こんなしっかりしたみかんはまず見ないです”とのお言葉を頂いた通り、お客様のお手元に届いてから数日後の状態をご覧いただければ、私の言葉に嘘の無いこと認識していただけると思います。
    柑橘類は園地に成っている状態では、エグミも苦味も腐敗臭もないのです。
    収穫から発送まで、果実を丁寧に扱えば、防腐剤はもちろん、ワックス処理も必要ありません。
  6. 新品種導入、耕作放棄地解消、食料自給率向上、園地整備
    新品種への取り組みも大切な経営の一環です。
    お客様のお声やご要望をいただきますと新たな品種への切り替えが必要です。
    お店に並ばなくなった昔懐かしい品種にも積極的に取り組んでいます。
    また、耕作放棄地の解消も積極的に行い、毎年新たに苗木を植え、国産自給率の向上にも貢献出来るように取り組んでいます。
    観音山の奥へと続く林道
    品種更新の時が園地の改造のチャンスです。
    能率的な農作業には、園地に道路や作業道が必要となってきます。品種更新を機会に、農地の基盤整備も行います。ご紹介のページにあるような地形になりますと、重労働の堆肥搬入などが容易になり、高品質生産への挑戦が可能となります。
  7. 販売
    ネット販売は勿論、スーパー販売でも、すべての農産物に当園だけの登録商標「観音山」のラベルにURLや2次元バーコードを貼って販売させていただいていますので、生産者の情報がご家庭でも確認いただけます。
    ”クレームはすべて当園がお引き受けいたします”とのスタンスです。無責任な品物はお送りできません。